相手がうつむいている時、自分が言いすぎてしまったのではないかと思う。
相手がちょっと大きな音を立てて立ち上がった時、自分が怒らせてしまうような言動をしてしまったのではないかと思う。
でも、それは本当なのだろうか?
本を読み始めてから、自分の思考について考え直すようになった。
ちなみに、思考の癖に気づくきっかけになった本である。
ちょっと時間をおいて考えてみた時、自分の思考の癖によって「自分のせい」にしてしまってるのかもって、考えてみるようになった。
生活の中である例を挙げながら書いてみたい。
事実と思考を切り分けて考えてみる。
例1 ある日のご飯後の片付け編。
ある日のご飯後の片付け。
あんたが、皿洗いした後っていつもシンクの周りが濡れてるんだよね。
ごめんって。そんなに怒らないでよ。
(また怒られた・・・)
怒ってないよ。だって濡れてるんだもん。
(大きな声で言うから怒られてるような気になるんだよな・・・)
この場合、
相手はただ、シンクの周りが濡れていることを言っただけ。〈事実〉
でも私の〈思考〉は、「また怒られた。(ちなみに私は、大きな声が苦手だから、大きな声で言われると怒られているような気持ちになってしまう)」
ちなみに、後から「大きな声で言われると怒られてるような気持ちになるんだよね」って話したら、
相手は「怒ってないよ、もともと声が大きいの」って言ってた(笑)。
例2 相手がうつむいている。私が何かしてしまったのかな・・・
そもそも、相手はうつむいているんだろうか。
「うつむいている」というのは私の解釈。事実で言えば「下を向いている」。
じゃあ、なぜ、下を向いているのかは、相手に確認してみないとわからない。
それなのに、私の解釈は、直前の話の仕方や内容と勝手に結び付けて、
「私が何か傷つけるようなことを言ってしまって、相手はうつむいているのではないか。」となっている。
例3 相手が音を立てて立ち上がった時。
そもそも私は、大きな音に敏感。
「立ち上がった」という事実はあるけど、大きな音だったかどうかは微妙かもしれないし、大きな音だったとしても、相手が怒っていたかどうかはわからない。たまたま、大きな音がなってしまっただけかもしれない。
怒っていたとしても、何に対して怒っているかは相手に確認してみないとわからない。
自分の解釈は本当なのか?客観的な視点をもっておく。
以下は、「今日から使える認知行動療法」という本から引用。
私たちは、認知というフィルターをとおして、ものごとを見ています。でも、そのことが意識に上ることは、あまりありませんね。そのため、自分の目に映ることを真実と信じ込み、客観的な事実に気づきにくくなるのです。認知に偏りがあると、ささいなできごとで落ち込むなどして、つらくなります。認知行動療法では、この傾向を認知のゆがみといいます。
(中略)
認知のゆがみがあると、周囲の人の言動も客観的に捉えにくくなります。「仕事ができない人間だと思われている」「私といても楽しくないんだ」というように、他人の思考を勝手に解釈してしまうのです。
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一つの事実が起こった時、私たちはそれぞれの認知のフィルターを通して、物事を解釈する。頭の中で解釈したことを、まるで事実かのように捉えてしまう。
だからこそ、「自分のせい」って思ったときは、一度立ち止まって「本当にそう?」って、客観的な事実と自分の思考を切り分けて考えてみることが大事だと思う。
少なくとも、私はこの考え方を知ってから、
出来事〈事実〉→自分のせいだ〈思考〉→憂鬱、つらい、落ち込む〈行動・気分〉
この負のループにはまる頻度は減ったと感じている。
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